不死鳥カラスの傾奇御免!

老舗の製麺所・浅草開化楼の営業担当σ(^o^) フリープロレスラー・不死鳥カラスのラーメンブログです。
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2011.02.20 Sun


この項、個人的な区切りの日記で重くなると思うから、どうぞパスしてください。
色んなことを思い返しながら自分で読み返し、時間掛けて修正し綴っていきます。



俺は町の中華屋を営む両親に育ててもらった。
今俺がこうして浅草開化楼にいるのもそれが縁になる。

皮から伸す手作り餃子が売りで、子供の頃は相当忙しかった記憶がある。
長男の俺が生まれたのは両親が今も在る浅草3丁目の本店から独立し、




初めて持った浅草寿町の借家の店だったが、
二人は努力し、俺が幼稚園に上がる頃には北区の上中里に初の持ち家を購入、
それから10年も掛けず、俺が小学5年の時に更に高値だった今の台東区松が谷に家を買った。
両親にとっては二人が出会い共に修行した浅草への凱旋みたいなもんだった。
豚カツ屋の居抜きを改造したその店は僅か6年後…、現在の5階建てのビルになった。




親父は中学を卒業して直ぐ、故郷富山から単身上京してきたのが始まりだから、
今の世の中からすれば考えられないくらいのサクセスストーリーと思う。
俺と弟、二人の兄弟を何の不自由もなく立派に育ててあげてくれた、心から尊敬出来る両親だ。

子供の頃を思い出すと、両親は絶えず夫婦喧嘩をしていたような気がする。
原因はただ一つ、親父はとにかく店に入ると仕事の鬼と化し、母への態度が変わるんだと。
それを『あんなの人としての扱いじゃない』と受け止め切れない母が、『謝るまで許さない』と
ストライキを起こして店の仕事を放り出し、2階のテーブルで時に涙を流していた。
仕事を外れれば、本当に仲の良い夫婦だったんだけどね。

時に自分の気持ちを決して殺さずに表へ出した母は、全ての面において親父の心の支え…、
いや、親父の全てだった。

そんな母が今から10年前、癌で亡くなった。まだまだ若い、56歳だった。
後にも先にも、俺の人生において最も辛く悲しかった出来事である。

が、親父の受けたショックと心に空いた穴は、俺などの比ではなかったのだろう。

一人残された父は、そこから一気に堕ちていった。


最愛の母が亡くなった時、俺は知り合いのサイトのメールマガジンでコラムを書いていた。
母の死に触れた2つの文をここで読み返してみる。



2001年3月26日(月)

「大好きなお母さん」

僕の最愛の母が病の床にいる。
6年前に乳癌になり、その際にリンパ腺への転移が認められ、
以後今日まで様々な箇所に転移を繰り返しながらも
その都度抗癌剤やホルモン剤を投与しながら
こうして倒れる直前まで気丈に働いて…。
乳癌切除以来2度目のこの入院で病院から出た結論。

母の身体に効く薬はもうない。
これ以上強い抗癌剤の投与の副作用に母は耐えられない。
痛みを取る為の薬だけを与える。
延命治療はしない。

見放しである。

こうして母は現在、実家のベッドにいる。
実家に戻って1日目で歩けなくなった。
それまでは歩行器を使ってかろうじて歩けていたのに、
トイレに無理をして一人で行き、
左足の大腿部を骨折。
骨自体が弱りきっているのだ。
黄疸が出て、白目がまっ黄色に…。
モルヒネの服用の繰り返しで、たまにする会話さえ、
まともなものではない。

正直言って今、急な時間の問題です。
思えばこの31年間、親不孝のし通しだった。
このままお別れになってしまう。
そう思うと、涙が止まらない。
最大の親不孝が、プロレスだった。

3月31日からの大仁田興行が目前ではありますが、
母の身体がそこまでもつかどうか、
正直、分かりません。
ただ、僕は母の人生を背負って、
リングに立つつもりです。

叶うことならば、母の痛みを全部僕が受け止めてあげたい。
大好きなお母さん。
もう1度元気になってくれるのならば、
僕は本当に、
死んでも良い。
神様がいるのなら、
時間を戻してください。
今から奇跡を起こしてくれと、
言えないくらい切羽詰まった状況に、
腹が立つ。
今のこの発達した世の中でありながら、
人間の力なんて、クソみたいなもんです。
現代医学なんてクソ食らえです。

もう今回は支離滅裂です。
みなさん本当にごめんなさい。


2001年4月2日(月)

今まで生きてきて、これ程辛い思いをしたことはなかった。
2001年3月31日(土)午後0時15分、
最愛の母が僕の目の前で静かに息を引き取った。

自分のメインのリングである大仁田興行の試合を、
今回デビュ-以来初めて休んだ。

こんなにも早く母が天国に逝ってしまうとは正直思っていなかった。
でもとにかくこの2日間の地方巡業で、
東京を離れることだけはしたくなかった。
母の側にいたかった。

僕が母のベッドに到着してから、僅か5分後の出来事だった。
まるで、僕が来るのを待っていたかのように…。
思えば、母には苦労の掛け通しだった。甘えっぱなしだったと思う。

会う度に、なんかしら口喧嘩していた。
でもいつの日か、
「お前にだけは言いたいことが遠慮なく言えるんだよね」と言ってくれた。
僕も、いくら喧嘩しても、心や実際の距離が離れたとしても、
もっともっと根っこの部分で、母だけは理解してくれていると思っていた。

実際そうであった。
母がやはり僕のいちばんの理解者だったと今更ながらに思う。
もう効く薬がない、よって延命治療はしない、
痛みだけを取り去る麻薬だけを投与するという、
残酷な最後の入院生活のお見舞いに行った時、
2人きりの病室の中で、母が言った。

「家族みんなで助け合って仲良く生きていってね。
あとは『ありがとう』だけ。遺言があるとすれば」と。
「な~に言ってるの!!」
僕がそう答える程に、母はまるで冗談めかしに笑って言った。

病院が見放す状態で退院し、大好きな自分の家のベッドで、
日に日に具合が悪くなっていく姿を見るまでは、
母の死のことなど、想像もできなかった。

今、母はお父さんと2人で最後の夜まで眠っていたダブルベッドの上で、
まるで眠っているかのような穏やかな美しい顔で、
信じられないくらい冷たくなっている。
しかし、そんな亡骸になった今の姿でも、愛しくて、母が愛しくてたまらない。

涙が止めどなく、流れてくる。
最後まで甘えっぱなしのダメ息子だと思う。
だけど、悲しくて、悲しくて、悔しくて堪らないのだ。

もう1度、ゆっくり会話したい。

もう1度だけでいい。僕を叱ってほしい。

もう1度、抱き締めて欲しい。

もう1度…。



そう…、

この母の死から、一気に親父は堕ちていった。
『抜け殻』『廃人』などという、情けなさ過ぎる言葉が似合うくらいに…。


母の葬儀が終わり暫く…ようやく気持ちが落ち着いてから、親父は店を開けた。
夫婦でやってた頃の出前を止め、たった一人での再開だった。

生まれつきキチッとした性格だった。
風邪で臨時休業などした記憶はない、とにかく働くのが生き甲斐な根っからの仕事人間だった。
また、男なのに誰よりも綺麗好きで、母が亡くなった後も店も家もピカピカだった。

そんな親父がある時から、急に店を休むようになった。
身体でも壊したのかと心配して電話すると、『朝起きれなかったから』と言う。
性格上、きっと寝坊した自分も許せなかったんだろうと思った。
しかしその休みは、翌日以降も続いていく。

近くに住んでいた俺は、ある日様子を見に行った。

親父は泣いていた。

母の死のショックから、未だ立ち直ることが出来ずにいたのだ。

母の写真に向かって手を合わせ『ごめんねごめんね』と、何度も繰り返しながら泣いていた。

元々涙もろくはあったけど…、
聞けば食事を一切摂っていないと言う。傍には、大好きな酒があった。

『自分で気が付いたらまたしっかり店やるから』

その言葉通り数日後、親父は再び店に立った。
しっかり働けば毎食丼飯で人一倍良く食べるのだ。
休んでいる間全然食わずに痩けていた頬も元に戻ってふっくらと。いつもの元気な親父だった。

が、安心したのも束の間…、
それからひと月も経たずに、親父はまた店を閉める。

『お母さん、ごめんねごめんね』

手を合わせて泣いていた。
何も食うことが出来ずにまた1ヶ月…、
ふと気付いたように営業を再開する。

『もう大丈夫だから』

しかし、そんな休業と再開の繰り返しはその後も終わることはなかった。そして…、
その休業が3度目くらいになってようやく、俺は親父の異変に気付く。

日々見る見る内に身体が痩せ細っていくのを目の当たりにする。
今回もまた、食事を一切断っていた。

『何も食べたくない…。食べる気力がない…』

親父はそう呟いたが、幾ら何でも人は食べなきゃ生きてはいけない。
この頃の…いや、これから先もずっと長いこと親父の体力が保っていたのは、
ただ両親に丈夫に産んでもらったことに尽きると思う。
他に栄養が摂れるものと言ったら、米で出来た酒くらいしかなかったから…。

食べないだけではなかった。
誰より綺麗好きな筈の親父が、風呂に入らないばかりか着替えさえしない…。
更に周りが汚れても片付けもしない、部屋は瞬く間にゴミ屋敷のようになった。
何をするでもなく、ただ居間の床に横になり、部屋の一点を見詰めて泣いていた。

どこからどう見たって異常だった。俺は何もしなくて良い、ただ頼むから食べてくれと言った。

この頃から、親父は度々『死』を口にするようになる。

『死にたいんだよ…。お父さん…鬱病になっちゃったのかな…』

それが『助けてくれ』という心の叫びに聞こえた。
もう、俺の頭ではどうしてやることも出来なかった。
俺は横たわったまま動こうとしない親父を強引に起こし上げ、精神科の病院へ向かった。

結果…

親父の病は鬱ではなかった。

待合室で待っていた俺に診察室から声が掛かり、親父の横に立って先生の説明を聞いた。

『お父さんの病気、確かに気持ちの問題はあるかもしれないけど…、
 今みたいな状態になる時って、常にお酒が絡んでいないですか?』

その通りだった。

親父の病気は、アルコール依存症だった。
後述するが、俺はこの時はまだ、この病があんなに恐ろしく忌々しいものとは思いもしなかった。

先生は親父に言った。

『お父さんさ…、お父さんはもう一生分の酒全部飲んじゃって、
 身体が受け入れられなくなっちゃったんだね。身体が対応しないから、もう止めようね』

と。
精神安定剤と睡眠薬、そして抗酒剤を処方してもらって定期的に通院する生活が始まった。
抗酒剤というのは、言わば酒を飲めなくする薬だ。これを飲んだ後でアルコールを摂ると、
例えそれが微量でも一気に大量摂取したような状況になる。
心臓がバクバクし出し、立つことさえままならなくなるという。
つまりはその恐怖感で酒を断たせようとする劇薬だ。

親父もこの頃になってようやく自分の身に起きた異変を意識し、
クリニックにもしっかり通院し、酒を抜く努力を始めた。
そして次第に体力も回復し、また店を開けるようになった。

…が、それも長くは続かなかった。



(つづく)
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